『消された文字の行方』

文章を書いて、
一行消した。

「ありがとう」と書いて、
少し大げさな気がして消した。

「寂しい」と書いて、
知られるのが嫌で消した。

「会いたい」と書いて、
相手を困らせそうで消した。

画面には、
何も残っていない。

けれど考えてみれば、
私たちの一日は
こういう消された言葉でできている。

上司に言わなかった反論。

家族に言えなかった感謝。

電車で隣に座った人への小さな苛立ち。

久しぶりに思い出した人の名前。

言葉になったものだけが
人生なのではない。

むしろ、

口から出なかった言葉のほうが
ずっと長く心に住んでいることがある。

夜、スマートフォンを閉じる。

画面は真っ黒になる。

今日も世界には、
誰にも送信されなかった文章が
何億通も浮かんでいるのだろう。

それらは届かない。

記録にも残らない。

それでも私は思う。

言えなかったということもまた、

誰かを思った
ひとつの証拠なのだ。

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