午前二時、
冷蔵庫を開ける。
腹が減ったわけではない。
牛乳、
半分だけ残った麦茶、
昨日の味噌汁、
いつ買ったのかわからないチューブの生姜。
それらを確認して、
私は何も取らずに扉を閉める。
部屋はまた暗くなる。
たぶん人間には、
何かを探しているふりをしなければならない夜がある。
昼間の私は、ずいぶん物分かりがいい。
信号が赤なら止まるし、
電車では降りる人を先に通す。
仕事には締切があり、
お金には残高があり、
人生には年齢がある。
スマートフォンは、
あと何分で駅に着くのか教えてくれる。
時計は、
あと何時間眠れるのか教えてくれる。
銀行のアプリは、
あといくら使えるのか教えてくれる。
世の中は親切になった。
わからないことが、
ずいぶん減った。
なのに、
「私はこれからどうしたいのか」
という質問だけは、
どのアプリを開いても表示されない。
昔、未来はもっと遠くにあった。
十歳の夏、
三十歳なんて歴史上の人物みたいだった。
四十歳はさらに遠く、
五十歳など、
ほとんど天気予報の外側だった。
だから未来について、
好き勝手なことを言えた。
大人になったら、
大きな家に住む。
外国へ行く。
何かすごい仕事をする。
お金持ちになる。
有名になる。
そのどれも、
子どもの私には同じくらい現実味がなかった。
未来とは、
まだ誰も住んでいない空き地だった。
ところが大人になると、
その空き地には少しずつ建物が建つ。
仕事。
家賃。
結婚。
保険。
親の年齢。
自分の身体。
一本ずつ道路が引かれ、
気がつけば、
「どこへでも行ける」
と思っていた土地に、
ちゃんと住所がついている。
それを不自由と呼ぶべきなのか、
私はまだ知らない。
住所があるから、
帰ることもできる。
誰かと暮らせば、
冷蔵庫には自分が買っていないものが増える。
洗面台には歯ブラシが二本並び、
玄関には自分のものではない靴がある。
人生は選択肢を失いながら、
代わりに風景を手に入れていく。
たぶん、
そういう仕組みなのだと思う。
もう一度、冷蔵庫を開ける。
白い灯りが、
小さな部屋の床まで伸びる。
何も変わっていない。
牛乳。
麦茶。
味噌汁。
生姜。
それでも今度は、
麦茶を取り出す。
コップに注いで一口飲む。
未来については、
やっぱり何もわからない。
十年後、
私はどこに住んでいるだろう。
何を仕事にして、
誰と笑って、
何を諦めているだろう。
答えはない。
けれど最近、
答えがないことを、
昔ほど怖いと思わなくなった。
人生はたぶん、
巨大な決断によって変わるのではない。
午前二時に冷蔵庫を開けること。
何も取らずに閉めること。
もう一度開けて、
麦茶を一杯飲むこと。
そんな説明にもならない小さな動作が、
何千、何万と積み重なって、
ある日振り返ったとき、
それを私たちは
「人生」と呼んでいる。
冷蔵庫の扉を閉める。
暗闇が戻る。
けれどほんの一瞬だけ、
閉まりかけた扉の隙間から、
細い光が
こちら側に残った。


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