戦争は、宣戦布告から始まるのだと思っていた。
けれど歴史をよく読むと、
戦争はいつも、それより少し前から始まっている。
国境を越えた一機のドローンが、
「事故」と呼ばれて墜ちる。
海底のケーブルが切れ、
空港のコンピューターが沈黙し、
夜のあいだに誰かが地図の上へ
新しい防空圏を描く。
翌朝、人々はコーヒーを淹れる。
株式市場は開き、
地下鉄は時刻表どおりに走り、
パン屋には昨日と同じパンが並ぶ。
だから、まだ平和なのだと誰もが思う。
しかし平和とは、
何も起きていない状態ではないのかもしれない。
互いの恐怖が、
互いの軍備を合理化しはじめたとき、
防衛のためのミサイルと、
攻撃のためのミサイルが、
同じ工場から生まれるようになったとき、
「念のため」という言葉が
国家予算の巨大な項目になったとき、
平和はすでに、
少しずつ別の物質へ変化している。
恐ろしいのは、
誰かが戦争を望むことだけではない。
誰も戦争を望んでいないのに、
全員が「相手は望んでいる」と信じることである。
疑念は疑念を証明し、
軍備は軍備を必要とし、
警戒はさらに警戒すべき理由を生む。
そうして国家は、
自分を守るために一歩前へ出る。
相手も、
自分を守るために一歩前へ出る。
二つの「防衛」が近づいて、
ある夜、
ほんの数キロメートルの空を挟んで向かい合う。
その距離を、
歴史はときどき
戦争と呼ぶ。
けれど今日も、
パリでは恋人たちが橋を渡り、
ワルシャワでは子どもが学校へ行き、
ベルリンでは誰かが
明日の夕食を考えている。
世界の終わりは、
世界の終わりらしい顔をして来ない。
たぶんそれは、
あまりにも普通の火曜日としてやって来る。
そして何年か後、
教科書の一行を指差した人々が言うのだ。
――ここから始まった。
けれど、その日を生きていた人々だけは知っている。
そのときにはまだ、
何も始まっていないように見えていたことを。


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